プロフィール

三浦ちづる

1949年 鹿足郡六日市町七日市に生まれ

私は島根の吉賀町でツル科の植物を使って「かご」を作っている者です。

 

 

 

     

 

略歴

年月 出来事
 1985年  つづらとの出会い
1987年  無人市「荷車市」につづらかごを出す
1988年 近隣の市町村のイベント参加
1992年 津和野町に店舗を借り「つづら工房」を出店
1993年 作品展〔ステーションギャラリー広島〕
1994年 作品展〔倉敷、津和野〕、津和野町の店舗を引き上げる
1997年 作品展「ワイルドアート展」〔柿木村ふれあい会館〕
1998年  作品展〔津和野ギャラリーよへい〕
1999年 柿木村にバインクラフト「Pacha」をオープン
1999年5月 「バラ展」参加
1999年11月 山口県美術展覧会 入選
2000年 山口県美術展覧会 入選、島根県芸術文化祭総合美術展 入選
2001年  山口県美術展覧会 入選
2001年5月 世界工芸コンペティション金沢 入選、作品展「ふたりのコンテンポラリー」〔島根県立美術館〕
2001年7月 世界工芸コンペティション金沢 入選、国際芸術交流展 倉敷 秀作
2002年 島根県芸術文化祭総合美術展 入選
2003年7月 作品展(広島天満屋「石見銀山ブラハウスギャラリーnōsen」)  
2003年11月 島根県芸術文化祭総合美術展 工芸連盟賞
2004年8月 東京にほんばし島根館 つづら工芸展
2004年11月 島根県芸術文化祭総合美術展 工芸連盟賞
2004年 山口県美術展覧会 入選
2005年7月 作品展(東京日本橋三越本店)
2005年11月 作品展(島根県芸術文化センターグラントア)
2005年11月 島根県芸術文化際総合美術展 
2006年4月 作品展(東京世田谷「アトリエ遊」)
2009年9月 広島福屋駅前店ギャラリー「クリエイト」
2009年11月 作品展島根県芸術文化センターグラントワ「つづらからのメッセージ」
2017年3月 広島「三越6F」ピースオンザテーブル出展
2017年11月    〃

 

 

 

 

 

 

 

 


カゴへの想い

1985 「私のカゴ編の始まり」

 

    今年は2019年。

   

    今から35年前のことになるでしょうか。

   「カゴ編みが出来る人がいて、編み方を教えてくれると言うんだけど、

   行ってみない?」 と友人に誘われて行きました。

    そこでは,籐(ラタン=東南アジアを中心に熱帯雨林地域の

   ジャングルに自生するヤシ科の植物。)で編みました。

   

   6~7回行きました。

   習う内に「山のツルでも編めるのではないか。」と思いました。 

 

山は私が幼い頃、ターザンごっこ等をしてよく遊んでいましたので、抵抗はありませんでした。☺

 

 

 


1985 『地元の材料で編めないか?』

 

     裏山に入り、数種類のツルを持って帰りました。

     そこへ義父が通りかかり・・・

     ニコニコして言いました。

  義父 「ちぃさんゃぁ、あんたぁー このカズラで なにゅぅしんさるんかな?」

  私  「カゴを編もうと思って、採って来たんですよ。」

  義父 「カゴを編むんかな?」

     

     義父は色々な種類のカズラの中から、一本のツルを持ち上げて言いました。

  義父 「まぁー、懐かしいなぁ! ツヅラじゃーなぁかな!」

     義父 「かごを編むんなら、これじゃいな。」

        「他の物じゃぁ、駄目でな。」

        「言うても分からんろぅけぇ、わしが連れて行って見せるいな。」

        「来てみんされ。」

     

     元気だった義父は、その足で山に連れて行ってくれた。

     

 


1985 『つづらとの出会い』

 

義父 「これじゃいな。」

   「カゴを編むのならこれでな。 他の物じゃー 駄目でな。

      昔は、カゴと言えばつづらで編んだもんじゃいな。」

      

      「農作業で使う、背負いかご、腰かご

       台所で使う、メゴ、ザル

       山で仕事をするときは、紐やロープのかわりにも使うたし、

       牛や馬をつこうて田を耕すころは、仕事の途中で草を食べんように、

       つづらで口輪を作って、牛や馬の口に当てたりしたもんじゃいな。

                        それに、つづらは薬としても使われ、昔は随分重宝したもんでな。」

 

   義父の話を聞いて私は思った。

   (かつて先人達は、山のツル科植物の中の「つづら」使って、生活の中で必要な道具を作り、活用していた。)??

 

 私 「それでは、なぜ廃れたんですか?」と聞くと。

義父 「あれは、そうじゃなー、昭和30年代にプラスチック製品が出回りだして、その価格の安さと、手軽さにあったんじゃいな。

   山に行ってつづらを採る手間やら、作る手間がいらんろうな。それで皆、プラスチックに流れたのいなぁー。」

   「そりゃー、竹でも作ったんでな、そいじゃがつづらの方が丈夫にあったいな。」

   「つづらじゃったら、大事に使えば100年でももついな。」

 

   そのとき私は、「これだ!」と思った。

 

 


1986「この町にも、きっとあるはず。」

 

当時、地元の大人たちが、よく言っていました。

 

「この町には仕事も何もありゃーせんのじゃけえ。若い者は学校を卒業したら、仕事の在る都会に行かにゃー、駄目で!」

 

本当にそうなのかな? と、常に疑問を抱いていた私。

生意気にも、「無いのなら、作ればいい!」

とばかりに編み始めました。

 

義父が、「これじゃぁ 駄目でな。」と言った、ツル科植物の総称「カズラ」の種類を問わず、

雨の日も、雪の日も、がむしゃらに編みました。

 

今、思えばまだ30代で若かったたのです。

子ども達が保育園に行っている間の時間、カゴ編に没頭しました。☺

 

「先人の知恵」を元に、新たな形を探し求めていた・・・

やがて・・・

大丈夫! 確かに素晴らしい。

しかし、このままでは独り善がりの物でしかない。 

 

 


1987  「荷車市と名付けて187号線にカゴを出す。」

 

世の人の目の触れるところに出してみよう。

そして第三者の目線でご覧頂くことにより、これから先の進むべき道が

見えてくるかもしれない。

 

(ひょっとすると私の意に反して、全く受け入れては頂けない物なのかもしれないけれど、やってみる以外ない。)

 

そう思うや、古ものやさんを訪ねた。 荷車があった!

その荷車の上に屋根を付けてもらった。そして、「荷車市」と書いた幟を作り、「かかし」も作った。

 

年寄りの作った野菜が食べきれないので「野菜」とともに、「カゴ」を乗せて出してみた。

 

 

 


1988 「近隣の市町村のイベントに参加」

 

役場や商工会からお誘いを頂き、様々な村の産物の中に「つづらかご」のブースも作って頂けるようになりました。

その頃はまだ、近所の友人2~3人も共に編んでいました。しかし、その友人は程無く自分の道を見つけだし、それぞれ自分の道を歩き始めたのです。

その後は一人で、この「つづらみち」を歩まねばならなくなりました。

 

一人になっても、私は止めるきにはなれませんでした。

岩国、益田、松江、等数々を思い出します。

様々な方々との出会いを頂きました。ともに活動した地元の方々にも、良くしていただきました。

本当に、お世話様になりました。

 


1992 津和野町に「つづら工房」出店

 

イベント参加によって、お客様の反応を見る内に・・・

アルバイトでお小遣いをため、お店を出そうと決めました。

 

自宅から通える場所で、お客様が来られる所!

津和野! 津和野なら観光地で全国からお客様が来られる所!

アルバイトの合間に津和野に行っては、空き店舗を探しました。

4~5度目でしたか、お借りできるお店がありました。

 

場所は、津和野大橋近く。

場所も良く、裏には車一台分の駐車スペース付き。

早速、お借りしたいと家主さんに、お願いに行きました。

 

お店の名前は「つづら工房」

当初、無人市の「荷車市」の時に使っていた、大きな案山子を持って行き軒先に立てました。

 

思った通り「つづら工房」は、日ごとお客様が多くなる感じがしました。

 

 

1992 忘れられない出会い

 

 津和野に居ながらにして、全国の方とお目にかかれた気がします。

その中でも、忘れられない出会いがありました。

 

「私は○○大学で、美術を教えているものですが・・・

あなた、これだけカゴを編まれるのなら、一度カゴをバラバラにして見られては如何ですか?」

 

私は「⁇?」一瞬言葉が出ませんでした。

すると先生は、

「方法は色々ありますが、焼いてみられるのも、いいかもしれません。」

 

 

 

以来、私は来る日も来る日も、カゴをバラバラにすることばかりを考えては、実践しました。

どのくらい日が過ぎたのか分かりませんが突然! 私なりの答えが出たのです。

 それは・・・、不思議な感覚でした。

 

カゴという概念を、超えたような気がしたのです。☺

 

 

 

1994  津和野町内・倉敷などで作品展を体験

 

友人とともに、小さな作品展をさせて頂きました。

 

不思議なほどに、次々と新たな発想が起こり、手が追いつかない!

私は、自身の内側から溢れ出るものを少しでも多く形にしたい思いでいっぱいでした。

無我夢中でした。

 つづら工房の近所の方に言われましたことがあります。

「あなたは、無から有を生み出すのがうまいね!」

その時は、言われた言葉の意味すら、考えられませんでした。

 

次第につづら工房を訪れる人は多くなり、困惑しました。

 取材の申し込みも多くなりました・・・

私は思いました・・・

(確かに、山に自生するツルを使い様々な形状を生み出すことが出来る事を確認できた。そしてお客様の反応も良く、多くの方に喜んで頂けた。

しかしここまで来るには、どれだけ多くの方々にお世話になって来たことか・・・

どんな形であれいつの日か、必ず恩返しをしなければ!

 

そう思うと、取材をお断りすることもできず、懸命に対応した日々がありました。

 

 

1994 この年は生涯忘れられない体験をしました 

何もかもが順調に思えました。

人生の転機が来たかのようで、心身ともに湧き立つようでした。

そこで突然!

 

数々の出来事が重なり、こんなことが? 在るものか! ??

いったい私が何をしたというの?

まるで、自分を取り巻くエネルギーの全てが逆転したかのように、八方ふさがりとなり、転落!

 

こういう時の私は早い!

店の物すべてを、主人の2トントラックに積み込み、2往復か3往復!  夜逃げのように柿木村に引き上げました。

 

その数々の出来事が重なった極めつけの事態は・・・

 

「つづら工房」に津和野の方ではなく、観光客の方でもない、どこかの会社の社員さんのようなホワイトカラーの若い男性と、

明らかに外国の方であると思われる二人組が、突然工房内に踏み込まれました。

ホワイトカラーの若い男性は、工房内のあれこれを指さされ、外国の方に何やら指示をされました。

その後、私などには目もくれず帰って行かれました。

 

その2か月後には、どこに行っても雑貨店のあちらこちらで、私が考案したデザインの物が置かれるように成っていたのです。

 

その時は、何のことだかさっぱり訳が分からないだけで混乱していました。

 

何故なら、私は「自身の中から湧き出てくるものを形作ること」こだわりを持っていたからです。 

その為に、(全てを奪われた!)との想いに至ったのです。

 

1995 空虚な日々

 

津和野の「つづら工房」を引き上げた時、丁度 主人の倉庫が出来たばかりでした。

そこへ、持って帰った物、全てを入れさせてもらいました。

そこは自宅から遠くトイレが無かったため、山口県山口市の方から仮設トイレを借りて来ました。

来る日も、来る日も、倉庫でぼ~っとしていました。

何も手に着かず、目にも止まらず・・・。

 

呼吸はしているようだけど・・・

と、自身の居場所を確認するようなこともありました。

 

 

 

 

 

1996 津和野を引き上げて2年が過ぎようとしたとき・・・

すぐそばを流れる、高津川の水の音が聞こえ、小鳥のさえずりも聞こえるようになりました。

深い眠りからさめたような、不思議な感覚でした。

その後、五感が少しずつ開かれ・・・

 

我に返った思いがしました。

私は、これからどうするのだろうか・・・

そんな時、友人が二人訪ねて来てくれました。

「どうするの?」

「これで、やめるの?」

「そんなことは、ないよね!」

「やりましょ!」

「柿木村で、作品展!」

「いいわね! するのよ!」

 

有難いことでした。止められるわけがなかったのです。☺

 

 

 

1996 柿木村の「ふれあい会館」での作品展に向けて

 

世間様の荒波にうたれた後遺症は、ぬぐい切れないままに

友人の熱い思い助けられ、準備を始めた。

 

友人の一人は「画」

もう一人は「鍛造」

そして私・・・

ツヅラフジが触れない。

カズラも触りたくない。

どうする! ちづる!

私は、草を摘んだ。これなら大丈夫!

二日も三日も草を刈った。そしてドライフラワー状にしながら考えた。

これを、どう使うのか!

 

と考えていた時、倉庫の傍に長い棒があるのを見た。

稲刈りの後、はぜ干しにするときに使う物で、長さは6~7mはある。

これを組んでみよう!

そこに、この草のドライフラワーを掛けてみよう!

ササッと絵にかいて友人に見せると、

『それなら、ここにあれを組み込んで「草を掛けて」その中に「画」と「鍛造」を入れましょう』と、話はすぐに決まった。

 

私の胸が、久々に熱くなるのを感じた。

 

 

 

 

1997 柿木村ふれあい会館「ワイルドアート展」

 

   「鍛造」「画」「私」の合作です。

   出来上がってみると、以前かきのきむら開催されたイベントで見た

   インデアンの『ティピ』というテントによく似ていました。

   

   会場は草の香が漂い、まるで大草原の中にいるようでした。

   その上、友たちの深い友情に包まれて・・・

   過去を清算しようと決心しました。

   すると息を吹き返すような、心地良い風を感じました。

   

   あの日の友情に、感謝しています。

   ありがとう!

   

   そんな中、会場に柿木小学校の生徒さんが大勢見に来てくれました。

   主催者側としては、勿論大歓迎で迎えました!

   あの時の子ども達は、覚えていてくれるだろうか・・・

   もう、大人になってるかー。☺

   

   

ここでもまた、沢山の方にお世話様になりました。m(__)m

   

   

1998 津和野「ぎゃらりー・与兵衛」作品展

   ここで「津和野での出来事を今一度振り返ってみよう。」と思った

   のです。

   正直、それには勇気が必要でした。

   ショッキングなあの出来事の後遺症から、まだ完全に離脱できては

   いなかったのです。しかし・・・

   

   ものづくりの道を、再スタートすると決めた!

   さあ! これからどうする?

   

   そもそも、私が津和野に来たのはより多くの方に、「つづらかご」

   をご覧いただき、私の信じた物がどう評価されるのかを、

   確認したかったからでした。

   それが、大きな目的だった事を改めて思い返しました。

   「つづら工房」でお迎えした、観光客様にはそこそこいい評価を頂けたように思えました。

   

   しかし、「美術」「芸術」的にはどうなんだろうか?

   私はあやまった道を歩んでいないだろうか・・・と、不安がよぎりました。

 

   今度は専門的な目線でご覧いただき、評価を頂きたい。それを経て、初めて次の一歩を踏み出せるような気がしました。

   

   

 

1998 たしか、この頃、津和野の物づくりの友人から・・・

    「つづらさん、あなたを探している人が居られるよ。」

「今は柿木村に帰っておられることを、話してはおいたんだけどね。」

やがて、柿木村にいる私を訪ねて一人の若い女性か来られました。

 

「あー! 良かったです。お元気でおられて。」その言葉に私は

こみあげてくる思いのままに、突然津和野を引き上げた理由を話しました。彼女は私の話を聞き終えるすると静かに・・・

「私は大阪から来ました。実はある会社に勤めていました。その会社では私のようなものが全国を巡り、これぞと思うもの見つけ出す仕事をしています。それを、会社の上司の方に報告すると賃金の安い国の人に同じものを作らせるのです。それを販売して利益を上げている会社があるのです。実は津和野で三浦さんの物を見つけて、素晴らしいと思って上の人に報告したのは私です。その後、私は会社を辞めました。

「後に、津和野に行って見ると三浦さんがつづら工房を辞めておられたので、ずっと探していました。」

私の脳裏をよぎったのは、あの日つづら工房に来られた若い男性明らかに異国の方である男性の不可思議な行動。その二か月後には、至るところの雑貨店に私が考案したものと同じものが置かれるようになった事でした。

何が何だか、即座には頭の中で整理し消化することは不可能でした。

 

今では、あの時訪ねて来て下さった一人の若い女性の誠が、この胸に伝わって来ます。

彼女に言いたい、「あの時は、バスもろくにないこの地によくぞお越し下さいました。有難うございました。」と・・・

お陰様で、全て納得できました。

    

   

  1998 5月・現在のpachaの工事着工

                     実は 1996年 活動再開の決断をした時、

       密かに、工房建設を考え始めていました。空恐ろしい計画でした。

    

       その理由の一つ ※主人の仕事用に建てられた倉庫を占領したままでいけないとの、

                強い思い。

       もう一つ理由  ※活動を続けていくためにはしばらくの間、研究が不可欠であり

                                      その為の場所も必要でした。(津和野を引き上げて2年が

                                 あったからこそ見えてきた「つづらかご」ならではの

                                 問題点が発覚していたのです。

                                 

     それは自然界のものを、人間界に入れる為のある種の約束事であるように思えました。それをいかにするかの方法を探しだす研究です。

   

    工房建設の三つ目の理由がありました。

    当時はまだ義父義母ともに元気でしたが、順番どおりに行けば私と主人が残され、その子どもは自立していきます。

    そのときこの小さな集落の中で、自身が老いて逝くまでの事を考えた時、とても不安を感じました。

    つまり、年を取ってからもできる私の生きがいの場所づくりでもありました。

    

1999 バインクラフトpachaオープン

     多くの方々のご尽力を頂き建物はできました。

     お店兼工房の名前も看板も、友人のお陰でした。

     名前は私の全く知らない国

     南アメリカのマチュピチュのある所の言葉で

     

     ケチュア語=pacha(ぱちゃ)=大地           

 

     英語=vine(バイン)=ツル科植物

        craft(クラフト)=手工芸 

                                 

                     バインクラフトpacha

 

     

 

当時友人の言うのには、

「ちづるさんはこんな山の中で、変なものを作っているので、あの標高の高いインカ帝国の人のようだし、人柄も何だか日本人ではなく、もっと温かい国の人のようだから、この言葉が良いと思うの。」

それで、決まりました。☺

建物の軒下の看板は「鍛造」の彼が作ってくれました。

贅沢~! ☺

 

    

1999 5月 津和野コミュニティーセンターで開催のバラ展

   津和野町在住の、お花の先生から「バラ展を開催するのですが貴方の

   カゴを使わせて頂けませんか。」との申し出を頂きました。

   ハンモック形の制作は楽しかったです。

   バラが入ると華やかさが出て、やはり一人ではなく、

   何かを添える事により、双方が引き立つのだと感じました。

 

   そういえば、人もそうですよね。☺

   

 1999~2004  山口県美術展覧会・島根県芸術文化祭総合美術展・等の

        公募展に出品

        友人に相談すると、「ちづるさんは現代美術がいいとおもうなー。」とのこと。

           それで、最初の3年山口県美術展覧会に応募。その結果3回とも入選。

           

           それでは、と島根県の総合美術展に出品

 「当時の写真がな無くて残念。」と思っていたら、賞状がありました。

 山口県は現代美術展、島根県は工芸部門でした。全て選内に入れて頂きました。

 選外でも仕方ないのに、どうして、こうなるのだろう? と正直、只々不思議でした。

 素材が新鮮だったのかもしれません。

 

 この5年間で、私が信じた物が公の場でも認めて頂けたという確信を得ることが出来ました。

 そして、この「つづら道」を歩み続ける事への不安を解消できたように思いました。

 何故ならこの「つづら道」を歩まれた先人が、身の回りには居られなかったからです。☺

 

1999~2004 様々な公募展に出品。

2003~2017 百貨店、デパート等での展示販売。

      これらを通して沢山の方々との出会いを頂き、

      至らなさ故の恥ずかしさも、山ほど経験しました。

 

      作品の質の向上を求められるのは、有難く!

      「何処までも追求するぞ!」と、思えます。

      しかし・・・

      作るもの販売場所までも、制限がかかってくるとは思いませんでした。

      私は、息苦しさを感じ始めました。

    

    何故なら・・・

    私はこれまで柿木村をはじめ、吉賀町内や津和野町の山野で材料を頂き、そのお陰でカゴづくりをして来られたのです。

    地元には、御恩があります。

 

2018  一年間は、しっかり悩みました。

    そして、決断しました。

    今後の活動は「町内に絞り込む!」と。

    

    そして私らしく、ジャンルを問わず、自由なものづくりに励む事を決意しました。(^_-)-☆